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[読書]井上智洋『ヘリコプターマネー』

結論から言うと、著者がマネー創造のメカニズムについて松尾匡と同様の根本的な誤解をしているので、経済版「偽医療」本と承知した上で楽しむ以外にはお勧めできない本です。

ヘリコプターマネー

ヘリコプターマネー

井上が誤った"loanable funds"モデルを用いていることは、「はじめに」のこの記述や、

日銀が供給するお金は民間銀行で滞留し、そこから世の中全体に十分行き渡っていなかったのである。*1

第2章の 

通常お金は、以下の三つのステップを経て家計まで流通していく。

(1)買いオペ:中央銀行が発行したお金を民間銀行に対して供給する

(2)貸し出し:民間銀行が企業にお金を供給する

(3)賃金など:企業が家計に賃金や配当の形でお金を支払う*2 

さらには、預金者の100万円の預金についての説明から分かります。

銀行から見ると、この100万円は借りたお金であり、これまた自由に貸し出しなどに使うことができるお金なのである。*3

これらはイングランド銀行が"Money creation in the modern economy"で、よくある誤解と指摘していることです。

Bank deposits are simply a record of how much the bank itself owes its customers. So they are a liability of the bank, not an asset that could be lent out. A related misconception is that banks can lend out their reserves. Reserves can only be lent between banks, since consumers do not have access to reserves accounts at the Bank of England.

ところが一方では、正しい記述もあります。

民間銀行は資金を集めて貸し出すのではなく、自ら貨幣を作り出してそれを貸し出すのである。*4

この矛盾をアウフヘーベンするために、井上は銀行の信用創造中央銀行の準備預金率に制約されているとのモデルを提唱しています。

プラス金利経済とは「法定準備率という制約がバインドする(縛る)経済」であると言える。*5

しかし、そもそも中央銀行は中銀当座預金の量を制約していないので、銀行は「準備預金額÷準備預金率」までしか預金を創造できない、という理屈は成り立ちません。カナダ、オーストラリア、スウェーデンのように準備預金率を設定していない中央銀行もあります。

井上モデルでは、中央銀行が供給する中銀当座預金マネーストックの源泉となっているため、政府が巨額の財政支出のために発行する国債中央銀行が恒久的な当座預金増加でファイナンス(マネタイズ)するヘリコプターマネー政策が必要という主張につながります。

しかし、中央銀行が買い取らなくても、銀行や保険会社など国債を欲しがっている金融機関等は他にあります。中央銀行が独占的に買い取ることで国債市場を歪める意味はありません。政府が将来の増税をセットにしないことを確約して国債を発行し、民間に買い取らせれば済む話です。

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リフレ論者は中央銀行が供給するマネーに経済をコントロールする特別な力があると考えているようですが、中銀当座預金の本質は金融機関間の決済に用いられるマネーであり、その量を増やせば経済規模が拡大するというものではありません。そのことは、アメリカの準備預金の長期推移を見れば分かることです。

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第4章では

ゼロ金利にまで至ると企業の信用創造を促進するような政策の手立てがほとんど失われてしまうからこそマネーストックが増大しない*6

状態を「信用創造の罠」と名付け、

ヘリコプターマネーによってマネーストックを増やすことで、需要を増大させることができる。*7

としていますが、設備投資を誘発していわゆる「経済の好循環」を始動させなければ、需要増大は一時的に終わります。クルーグマンの言葉を借りれば、爆発的な財政支出によって経済を罠からの脱出速度に到達させる必要があるわけです。

What Japan needs (and the rest of us may well be following the same path) is really aggressive policy, using fiscal and monetary policy to boost inflation, and setting the target high enough that it’s sustainable. It needs to hit escape velocity.

しかし、「重力」がブラックホールのように強ければ爆発的な財政支出も無効であり、日本はその状態にある可能性が濃厚です。

銀行の貸出金利が0%台まで低下しても資金需要が盛り上がらない主因の一つは(クルーグマンも認めるようになったように)おそらくは人口動態です。

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企業の投資は経済成長率に強く影響されるので、量的なマイナス成長が確実視される国への投資が手控えられるのは当然のことです。

Low interest rates didn’t spur corporations to invest, nor did high rates seem to inhibit them from investing, suggesting that “cheap” outside capital is of limited importance in investment decisions.

“What corporations really respond to is what sort of profit outlook they face, and the general environment for growth,” Kothari says, noting that investment also closely correlates with gross domestic product growth.

日本を代表するメーカー・トヨタ自動車も、拡大が見込めない日本市場から海外市場に軸足を移しつつあります。基本方針が現地化なので、大幅な円安でも輸出が増えず、能力増強投資につながりません。

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これに加えて、企業の株主重視経営への転換により、投資のハードルレートとして資本コストが強く意識されるようになったことも影響していると考えられます。経済産業省の「伊藤レポート」によると、グローバル投資家が要求する「資本コストを上回るROE」の平均は約8%で、1%の借入金利とは著しく乖離しています。

本来であれば、経済成長率の鈍化に応じて投資のハードルレートも引き下げられるはずですが、グローバル投資家がそれを許してくれないため、日本銀行の金融緩和が無力化されてしまうわけです。

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第5章では銀行が不当に享受している貨幣発行益を政府の手に取り戻して国民にベーシックインカムとして分配するべきとの主張をしていますが、銀行の貨幣発行益とは要するに利鞘のことであり、銀行業務への正当な対価のはずです。意味のよく分からない言い掛かりをしているとしか読めません。

本書を含む多くの経済学者が書いた本に共通するのは、金融政策や財政政策にばかりフォーカスして、過去20年間の企業行動の大転換を無視していることです。下の記事などで検証していますが、大企業のグローバル化と株主重視経営への転換がマクロ経済動向に大きな影響を与えたことは確実であり、それを考慮しない議論は無意味と言わざるを得ません。

totb.hatenablog.com

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マネー創造について正しく理解したい人には以下をお勧めします。

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